Kuro in Germany’s blog

ドイツ発クロものがたり

私の大阪

80歳を超えたころからだろうか、上の姉は幼いころに過ごした大阪について話すことが多くなった。私は「大阪生まれ」と人には告げるが1歳7ヶ月で引っ越ししているので何も覚えていない。しかし7歳年上の姉は小学校に通っていたので思い出があるらしい。自分が住んだ大阪を一度訪ねてみたいとしばしば言うようになった。「ならばみんなで大阪へ行こう!」ということになり、戸籍上の住所と姉の記憶をたどりながら調べてみた。

なに分にも昭和17年から24年までの戦前、戦後の大阪である。なにもかも戦争でやられたり市町村の統合・合併などで住所に辿り着くのはむずかしい。それでもすぐ上の姉が生まれた住所と私が生まれた住所を辿ることができた。コロナ禍で日本への帰国がままならず、お預け状態の大阪への旅が実現したのだった。2022年11月の一時帰国で実現した。

82歳の長姉、彼女と一緒に暮らしている14歳年下のせつこさん、78歳の次姉、75歳の私の高齢者4人の3泊4日団体旅行はこうして現実のものとなった。駅到着後、大阪ではレンタカーを借りわれらがせつこさんの運転であちこちすることになっている。

大阪生まれと言いつつも実は「なにわ魂」も「大阪弁」もそして最大の楽しみのお食事にも大阪には魅力を感じてこなかった。なによりも大阪発祥?のかしましい「お笑い」には最も馴染まない。

だからか今まで仕事で訪ねたりしたこともあるが単に通り過ぎてきたのが大阪なのだ。

今回はそんな大阪とばっちり向き合うこととなった。プランをたてるのは私の役目。観光に興味がなくむしろ大の苦手な私。しかし姉たちはそうは行かない。しっかりと予定は組まねばならない。

ー到着日は簡単な市内観光、

ー翌日は「思い出を辿る」日、

ー3日目は京都か奈良へおでかけ、

ー4日目は残りの大阪観光の後帰途へ

到着日:4人とも大阪は初めてなので観光に徹することとする。

まずは「通天閣!!」そもそも通天閣って何?と思いながらナビに入れて出発。そうだそうだこれが通天閣だった。みんなそう思いながら写真をパチリ。いきなりすぐ上の姉が「たこやき!」と一言、次姉が気がつけばお店に!!大阪だからね。しかしいつも一筋縄ではいかない姉が食べきれないほど買い込み度肝を抜かれた。だがしかしその食いっぷりの良いこと!呆気にとられたがあとの3人はペロリと平らげた。脱帽!!次はなんと言っても大阪城!どこだどこだと歩く歩く。恐るべし観光パワー!

3年前に父の生まれ故郷の長崎に同じメンバーで旅したときに思い知ったのだが、この姉たちはどうやら新鮮なお魚には興味がなく、私の好みと全く合わない。日立に住み叔父が漁師さんだった上の姉は新鮮なお魚談義をしたり、食べはするが、だから特にこだわるほど好きではないらしい。すぐ上の姉に至ってはお刺身が「食べられない!!」私にとっては悲劇と言っても過言ではない。お魚を食べることだけが楽しみな私は、そもそも食べることには期待できない姉様たちなのである。末っこの私は極力主張しないことにしている。

旅の2日目:

思い出を辿るツアーは姉の記憶にのこる神社を探し当て、市役所で新住所なども聞き当てそれはそれは感動的な時間をもつことができた。お昼を食べる間もなかったので、とにかくお茶しよう!と喫茶店に入る。地方では有名なコーヒー専門店なのだそうだがそこでまた度肝を抜かれる。3時を過ぎていたのでケーキかなと思いきやなんと魚嫌いの姉はとろけるチーズのせビーフシチューに大きなバゲッドをペロリ、一番上の姉はこれでもかというほど大きいホットケーキにジャンボポーションのソフトクリーム・ジャムソース!!健康万歳!!! 

私はというと念願のソフトクリームとコーヒーを食し満足!さすがその日の夕食はだれからともなく「コンビニであれこれ買い込んでお部屋でたべよう」ということになった。ホテルは新大阪駅に近いところにあり、ドアでつながっているふた部屋だったので自由に行き来ができ団体行動にピッタリ。

ところで不思議に思うことがあった。「姉がホテルにはお風呂がない」と不服そうに言っていたのだが要は最近よくあるシャワー付きということで普段シャワーしか使わない私には何の不便もないのだが、お風呂の習慣がある日本では問題らしい。でも別の階に大きなお風呂がついているのでと利用してほしいとのことだった。このホテルは朝食時に徹底したコロナ対策をしておりそれは見事というしかないのだが、不思議に思ったのは浴場では超密状態らしいのだが、こちらの方の密状態はどうなっているのだろう。だれも指摘しないようだ。摩訶不思議。。。

 旅の3日目、京都に行きたかったがなにしろ観光客で混み合い車での移動は難しいと判断して急遽奈良にいくこととなった。奈良は高校時代、遠足で行ったような行かなかったような、あまり記憶になかったが、有名な観光地の割りには落ち着いた良い街だった。こちらも行程を決めるのは私。なるべく歩かないで済むコースを考える。猿沢池の近くに車を駐車して興福寺・5重の塔などなどを見て次の春日神社、東大寺が遠かったので、一度味をしめた人力車に乗ることを推奨。お財布を握る姉が少々渋ったが説得して2台に分かれて乗車。以前はコンパクトで平らな倉敷だったが、今回は坂道が多く乗ってみて大変と判った。それでも説明付きで2区間、東大寺境内につながる道まで乗り喜んでもらったようで良かった!

 帰途はすっかり暗くなった道をドライブ、大阪の夜景を楽しみながら、奈良で買い求めた、3姉妹グループは鰻、私は海鮮丼のお持ち帰りをホテルのお部屋で舌鼓み、楽しい一日をすごした。

4日目は大阪でやり残した道頓堀散策、本場のお好み焼きを老舗「ぼてちゅう」で食べ、観覧車で道頓堀を上から眺め、レンタカーも無事返却、午後7時22分発ののぞみで一路東京へ。

無事、4日の大阪ツアーは終わった。上の姉は大腸癌、乳がんを闘い、すぐ上の姉は股関節の骨折のリハビリを終えたばかり、せつこさんは腸の疾病を乗り越え、決して簡単ではない4人の旅。大切な時間を共有できたことに感謝。

みいちゃんの運命

病院通いに少しも慣れないタカシとヨウコがみいちゃんの健康診断につれていき、血液検査をして帰宅したのも束の間、ザック先生より検査の結果、赤血球の値が気になるので再検査を薦められ、再度病院へ。 そして診断結果はまさかの「猫エイズ」陽性反応が出たとのこと。要は我が家のみいちゃんはエイズのキャリアだというのだ。

なので今後は外に出さずに100%家猫として飼うようにとのこと。今まで自由気ままに出入りしていたみいちゃんにそんなことを強要できるのか。タカシは首を振る。ヨウコは覚悟を決めてはみたものの、意見が合わず毎日頭を抱えている。 みいちゃんを保護したフランクシニアご夫妻に相談するとやはり「みいちゃんにはムリ!」との意見。いずれにしても免疫が弱り、病気に罹りやすいことに加え、猫同士の喧嘩となった場合にエイズウィルスを移してしまうので飼い主としては無責任となる。

もはや選択肢がない中、いまだに現状維持の我が家。こんな無責任は許されてはならない。飼い主としての覚悟も責任感もない私たちは自己嫌悪に落ちるばかりだが、いまだにみいちゃんファーストの生活が続く。

みいちゃんの運命

病院通いに少しも慣れないタカシとヨウコがみいちゃんの健康診断につれていき、血液検査をして帰宅したのも束の間、ザック先生より検査の結果、赤血球の値が気になるので再検査を薦められ、再度病院へ。 そして診断結果はまさかの「猫エイズ」陽性反応が出たとのこと。要は我が家のみいちゃんはエイズのキャリアだというのだ。

なので今後は外に出さずに100%家猫として飼うようにとのこと。今まで自由気ままに出入りしていたみいちゃんにそんなことを強要できるのか。タカシは首を振る。ヨウコは覚悟を決めてはみたものの、意見が合わず毎日頭を抱えている。 みいちゃんを保護したフランクシニアご夫妻に相談するとやはり「みいちゃんにはムリ!」との意見。いずれにしても免疫が弱り、病気に罹りやすいことに加え、猫同士の喧嘩となった場合にエイズウィルスを移してしまうので飼い主としては無責任となる。

もはや選択肢がない中、いまだに現状維持の我が家。こんな無責任は許されてはならない。飼い主としての覚悟も責任感もない私たちは自己嫌悪に落ちるばかりだが、いまだにみいちゃんファーストの生活が続く。

Yokoのジクソーライフ

旅立ち その1

 

それは1970年5月のこと。大学を卒業して母校の英語の教師になるはずのわたしに「英語のブラッシュアップでもしたら?」と母親が友人のイギリス人宣教師に勝ってに話しを進め、いつの間にか渡英が決まっていた。

イギリスってどこ? それは青天の霹靂!

最も安いチケットだと聞かされ生まれて初めて飛行機に乗り込んだ。香港で乗り換えバンコックまで。今から考えると多分安いのはバンコックからアムステルダムまでのチャーター便だったのではないかと思う。羽田から香港乗り換えバンコクで一泊、そして南回りでアムステルダムに到着しそこで一泊、更に翌日イギリスヒースロー空港まで。2泊3日の空の旅はホテル代を考えても片道28万円はどう考えても安いとは思えない。空港で母の友人のイギリス人の婦人に迎えられロンドンで一泊して辿り着いたのはイギリス南西部。対岸にウェールスが見えるそれは小さな田舎の村のさらに奥まった敷地にお城のような館がひっそりたたずんでいた。「新しい形の修道院」と表現できるこの館に預けられたかたちだった。ほぼ自給自足のこの施設に1年お世話になった。次の1年はケンブリッジの全寮制の神学校で学費を学生食堂のお手伝いで稼いで神学を学んだ。3年目はロンドンのセントポール寺院の前庭にある日系の旅行社での勤務。すべて行き当たりばったりの決断の繰り返しだった。この波乱万丈の3年間が今の私を育ててくれたといっても過言ではない。私は自分に向かい合うことに必死で自分勝手だったと思う。その時のワタシに寄り添ってくれた友人・知人・恩師の力は計り知れない。生きることに必死だったこの3年間で流した涙はその分いとおしく生涯大切にしたいと思っている。

 

コロナウィルスの感染におびえ、ウクライナ戦争に先行きを見失う昨今、「命、生き方、価値観」などが問われている。53年を振り返って思うことは「私たちは沢山の人に生かされている」ということ、恩返しは「未来に繋げること」だと。もし「絆」というものがあるとしたら、もし「誰かと繋がることができる」なら、私たちは「地球人」として生きていることを伝えたい。何一つ自分の力で生きることのできなかった私をここまで強くしてくれた人が世界中どこにでもいることを伝えたい!

イギリスでの3年間、そしてドイツの50年がとてもいとおしく、そしてSNSでシェアできること、そう思える今日に感謝!!

 

 

ミーちゃんの健康診断日

クロを2年前に看取ってくれたザックス先生を指定して、我が家の家族になってから初めての健康診断日がとうとうやってきました。

ケージに入れてクリニックまで連れて行くことに異常に緊張したタカシとヨウコ。心臓をバクバクさせながらばたつくミーちゃんをケージに押し込め「ごめんね、ごめんね!」を繰り返しながら到着。今までだしたことのない大きな声で鳴き叫ぶミーちゃんが可哀想でオロオロする二人。やはり飼い主としての覚悟がなさすぎる!!

ザックス先生は2年前のことを鮮明に覚えていて、相変わらず優しい言葉をかけてくれた。

一言で説明するにはややこしいミーちゃんの境遇を丁寧に聞いてくれ、「なんて可愛いんでしょう!!」とそれはそれは私たちを元気づける言葉をかけてくれる。嬉しい!有難い!

「結局ミーちゃんが飼い主を選んだかたちですね」と。なるほど!

ミーちゃんの健康状態は見たところ良好とのこと。ほっ! 体重は6,4kg少々太り気味。「少し運動しましょうねー!」と助言。

採血をして健康診断は終わる。どうにもこうにもペットを守る覚悟がなくオロオロしてしまう二人にひそかにヨウコはガックリした次第。

大役を果たした思いでミーちゃんの機嫌をとる二人でした!!

ご近所のミーちゃん特報!

ご近所のミーちゃんが正式に家族になりました。

毎日毎日、首を長くしてお迎えを待ち、待ちくたびれてお出かけしてしまい、その間ミーちゃんを迎えにきては空振りするフランクジュニア家。そんなミーちゃんを実家までお届けするワタシ。

一日のほとんどを我が家で過ごすミーちゃんが唯一実家にもどるのは夕ご飯の時。それも15分もするとすぐ戻ってきてしまう。そうした毎日にタカシ氏は「いい加減うちでひきとろうよ」と言っていたが、そんな大切な話はミーちゃんを家族として引き取ったフランク家と息子夫婦のフランクジュニア家とじっくりお茶でもいただきながらしたいとヨウコは主張し、なかなかその機会が訪れず時間がすぎていった。

しかし、タイミングが合わず雨の中行ったり来たりを繰り返すジュニアパパにワタシは思わず立ち話で「この際、我が家に引き取るっていうのはどうかしら」と切り出した。「ちょっと相談してみますね」と言われてほぼ1週間がたった日のこと、「引き取っていただくことに家族全員賛成です」と。その代わりというか条件として、「我が家が休暇に出かけるときはフランク家が面倒を見ることを条件にしてくださいね」。ありがたいお申し出❣️

ミーちゃんの受け入れを希望していたタカシ氏とクロの命を守りきれなかったことを引きずって決心できないヨウコが、何と6年前にポルトガルからクロを連れてきた記念日、しかも日本ではネコの日の2月22日に里子の受け入れが決まった。運命としか思えない。

 

当のミーちゃんは預かりしらないところで「フランクチップ」から「イソミー」となった次第。

とにかく嬉しい! とにかくうれしい!

 

ミーちゃんのその後

クロが託したとしか思えないご近所のミーちゃん、いつの間にか、我が家では日毎存在感を増してきた。あれは確か去年(2022年)の春、クロをドイツに連れ帰った記念日の2月22日に思い出のポルトガルにでかけて帰ってまもなく庭に現れたのがミーちゃんだった。あれからほぼ1年。ミーちゃんにはたくさんのドーパミンをプレゼントしてもらい、退職して時間たっぷりの毎日を送っているタカシ氏の毎日は充実している。ミーちゃんには餌はあげない約束をしたが、お泊まりの朝はどうしてもおねだりされるままにあげる習慣となり、多分今では実家には周知されているにちがいない。