Kuro in Germany’s blog

ドイツ発クロものがたり

ご近所のミーちゃん

クロが亡くなって2年半が経った。私たち夫婦を世間並みの大人に成長させてくれたクロはこともあろうにご近所に住むミーちゃんを後釜に私たちのその後の成長を見守るというのか。

ミーちゃんは何気なく我が家の庭に出没するようになった。ポルトガルのクロのように飼い主がいるに違いないと思った。頻繁に現れるようになったので、ご近所に写真を見せて尋ね歩いた。2件目の家でピンポーン!! ミーちゃんはなんとタマのお家の人に拾われたとのこと。しかしタマのテリトリー意識が強く馴染めず、向かいの息子夫婦のところに預けたとのこと。この家には保護猫の兄弟が先住猫としていて、ミーちゃんはお邪魔虫となり、近所をホロホロ彷徨う毎日だったようだ。

ということでミーちゃんは我が家にウェルカム。「餌をあげても良いですか」と尋ねるとそうするとウチに帰ってこなくなるので。。。。と言われたので、餌はあげない約束で我が家のテラスに出入りするようになった。

 

14  最終章?!

こんな風に「クロものがたり」に終わりが来るとは思わなかった。いや思いたくなかった。点滴をがんばったクロが帰ってきたのは3日前, 2020年7月17日。

食べないクロに自宅で点滴する決断をしたヨウコは休暇でもどってきたもう一人の獣医さんに指南いただくべく、そして彼女の留守中に入院したときの血液検査の結果を見てもらうべく21日に無理矢理アポを取り付け夕方ならとのことで病院に行った。「まずは診察を」。ごもっともだ。このザック先生は一度もクロを診察することもなくいつも気持ちよく相談にのってくださったお医者さんだった。コロナの影響で診察室に入ることはできず私たちは待合室で待った。

よびだされた私たちに告げられたのは思いもよらないことば。

「クロはご存知のように腎機能はまったく果たしていません。そのために食べることはおろか、内臓のあちこちに炎症がおき、痛みもあるはずです。クロをこの辛さから解放してあげましょう」涙をうかべてザック先生は言う。

タカシもヨウコもことばを失う。いつかは来ると覚悟してきた「その日」が今日?

何がなんだかわからないまま、ザック先生がご自分で看取りたいとのことで2020年7月23日、そう明日クロは覚めない眠りにつくことになったのである。

タカシもヨウコも泣く。そして話す。クロは幸せだっただろうか?私たちはクロに正しいことをしてきてあげただろうか。あの劇的な再会の日から3年弱、もうすぐクロは5歳の誕生日を迎えるというのに。

長い長い最後の「とき」をクロと過ごした。かたときも離れずに。クロの部屋で。

 

                  おしらせ

             2020年7月23日 晴れ 13時30分

          生まれ故郷のポルトガルのような真っ青な空のもと、

       我が家の大事な家族くろは今日をもって住むところを移りました。

        2度とお引っ越しもなく、時間やお食事の制限もない場所に。

              新住所はタカシとヨウコの心

          クロを可愛がってくださった全てのお友達の心

          『お世話になりました!ボクはとても幸せでした!』

                 クロからのご挨拶です。

 

やすらかに眠りについたクロはまるでいつもとかわらず眠っていた。冷たくも硬くもならず

すやすやと。わたしたちの寝室で一晩すごした。

それはそれは穏やかな時間だった。生涯忘れることはないだろう。

タカシの会社のすぐそばに動物専用の火葬場がある。タケとナツミさんが一緒にクロを見送ってくれた。ナツミさんはクロ宛てのおてがみを添えてくれた。うれしかった!

最愛の人と別れを告げるこの瞬間はいつも受け入れがたい。身体から離れ魂は

天国に迎えいれられる瞬間? どう信じれば良いのか。

今はクロは寝室に。理屈ではない。ただクロは確実にここにいる! そう考えないといたたまれなくなる。

庭で餌をついばむ黒い鳥、ゴルフ場で出会うカモやその他の小動物。出会えば

クロ!と呼びかける。そして振り向いたと二人は確信する。

家に帰るとクロが2階から降りてくる。ここかしこに居るクロ。

 

 

                                 エピローグ

 

             わたしたちはことばを失った。

       友人から投げかけられることばは心に触れてこない。ただ、、、、、

         そのかわりにいただく「想い」 はしっかり心に届く。

         そして今「愛しい想い」に包まれている。世の中に対して。

             クロに出会うことで育まれたのは

                   愛しさ、いとしいと思う心。

                  慈しみ、いつくしむという行為。

            それは確実にわたしたちの心に植えつけられ、

           これからの私たちの宝になっているはずと確信する。

   

               ありがとう、クロ!

 

 

 

 

 

13 リノベーションのツケ?!

 

あれから。。。。。そう確かにリノベーションが始まった6月あたりから、クロは食べなくなった。 日本から購入したお薬は4種類。餌とともに確実に投与しなくてはならない。しかし食べないと体内にはいらない。

毎日つけている食事・薬日記も空欄が増える。きちんと記録できないからだ。

食べないと空腹で吐く回数も増えその分、体に負担がかかる。

リノベーションは予定より1週間延び、現場監督のヨウコは職人とのやり取りでカリカリしている。「どうもあの職人は腕が悪い」「壁塗りはいいけどフローリングの経験はあまりないのではないか」「できる職人なら2週間で終わったのではないか」などなど。

かつて30人ものドイツ人の教師を束ねて経営したNPOの経験から勤務評定はシビア。毎日のように責任者に電話して辛口のコメントと質問をする。

こんな情況の中でクロの日常の変化。タカシにいたっては「クロにとってフローリングはいやなんじゃない? 爪とぎできるところがなくなっちゃたし」と

ダブルパンチ。

ヨウコにはやがて「クロにかわいそうなことをした!」という思いに駆られるようになる。

1年に一回の予防接種と健康診断が7月のはじめにあるので、今年は早めしようと話していたにも関わらず、獣医さんはのきなみ夏休みで留守。もっとも早く予約がとれたクリニックにつれて行ったのはほぼ予定日の7月13日。まずは食べない心配から血液検査をお願いした。

結果は絶望的な数値。CREAという腎臓機能を測る数値は通常は71~212のところ最初は測れないほど1200を越えていたそうだ。すぐに点滴をするべく入院を薦められ3泊4日の入院で数値は測れるまでに下がった。とは言え1051!

つまり食べない⇒脱水症状⇒体力の衰弱⇒これ以上は聞きたくない!考えたくない!しかし獣医さんは冷静で、クロの負担を軽くするために決断しなければいけないときがある、と。

私たちはあきらめない!クロが4日もがんばって下げた数値をなんとしてでも下げるべく努力します!!と告げ、藁をも掴む思いで「自宅で皮下輸液できますか?」と尋ね、反応はいまひとつの獣医さんから自宅用のセットを受け取り戻ってきた。

今日は7月20日。クロは帰ってきてからもほとんど食べない。どうしても!の

お薬だけはタカシが必死にクロの口をあけさせヨウコが喉に落とし込む。この段に及んでどれほどの効果があるのか、つい悲観的になるがまだ一抹の希望をもっている。

今はクロとの一刻一刻を大切にしたいという気持ちで二人はがんばっている。

f:id:kuroingermany:20200805200413j:plain

26年ぶりのリノベーション

 

12 クロの反抗?!

久々にクロに振り回されている。

我が家の改装工事が始まったのが、6月2日工事は2週間と言われ6月12日までの予定である。客室兼クロの寝室、書斎、クロのトイレ室兼洋服部屋から引越し業者さんの手で家具が運び出されたのは工事が始まる一週間前の5月27日。家の中はガランとしてしまった。

今回の改装工事はここを新築して以来一度も手を入れておらず26年経った今初めて壁を塗り替えることから端を発し、見積もりにきた塗装業者が階段からクロ室まで敷き詰められたカーペットの余りにもの汚さに「この際フローリングにしたら?」と薦められ思った以上のおおがかりの工事になった。

工事が大掛かりになったことでもっとも心配したのは我が家の主クロに与える影響。それもあり夫タカシは2週間の休暇をとりクロシッターをすることにした。

              

クロの変化に最初は気づかなかった。今まで上っていた階段の感触、座っていた書斎の事務用の椅子、クロのベット、何もかもが工事で日常ではなくなった。極め付きは居間のペンキ塗りの日。入れるはずのドアが覆われ、一日中我々はテラスで過ごした。不思議そうな顔でみていたクロに変化があったのは、この日から。まず出かけたきり帰らなくなった。クロはノラだったので、家ネコとして閉じ込めておくのは可愛そうだとのタカシの強い意見で私たちが家にいる限りは出たがるクロはテラスか玄関から出していたのだが、それが外での時間のほうが長くなってきた。そもそもクロは食欲が無くなり、朝はお薬をのませるのに苦労している。居間のペンキ塗りが終わった翌日異変が起こった。人の顔を見て今までにはない鳴き声をだし、どうやら外に出せと主張している。そして普段出入りしているお隣りの庭に行き、待てど暮らせど帰ってこない。家出か? そんなクロが帰ってきたのは夜中の14時。悩みは絶頂に。 中山先生にはもう相談できない。クロを外に出さない選択肢は長い眼で見て決して悪いことではなく、ネコはそれが日常と思えば時間をかけてでもなれてくるものだと言われ、クロの健康を考えるなら家ネコとして飼いならすのがベターと薦めてくださった背景もあり、敢えて外にだす選択をした私たちはいまさらながら相談できないのである。

私たちはペットを飼う資格はあるのか?とヨウコはひそかに思う。ここまでクロ中心で考えている生活であったはずなのにクロ目線では考えていないから、ここまで動揺するのだろう。ペットはペット、私たちは飼い主。飼い主にも日常がある。仲良く生きていくために整理つけなければいけないことはあるのではないか? なんとも成長できない飼い主がいる。

 

 50年前の今日5月12日

「今に伝えること」と「今に伝わること」

 

それは1970年5月12日のこと。大学を卒業してすぐ出発のはずが「国際免許証」なるものの取得に手間取りさらに格安チケットの取得に時間がかかったのでした。

卒業して母校平安女学院高校の英語の教師になるべく「英語のブラッシュアップでもしたら?」と母親が友人のイギリス人宣教師といつの間にか話しを進め、いつの間にか渡英が決まっていたのです。

イギリスってどこ? 海外に行くなどと思ってもいなかったので、それは青天の霹靂!

安いチケットだと聞かされ乗り込んだのはCathay Pacific。香港で乗り換えバンコックまで。あとから考えると多分安いのはバンコックからアムステルダムまでアジア中の宣教師のためのチャーター便だったのではないかと思います。バンコクまでとアムスからヒースロー空港までの乗り継ぎ便とホテル代を考えると28万円はどう考えても安いとは思えません。しかも片道ですから。

そんなこんなで羽田を出発したのは5月12日、目的地についたのはバンコック、アムス、ロンドンの3泊をこなし5月15日のこと。どれだけ遠いところに来てしまったのだろう。

Lee Abbeyは「新しい形の修道院」と表現したほうが良いいわゆる自給自足で運営されるキリスト教団体で運営されるコミュニティでした。イギリス南西部でDevonと地域の北で海を挟んで対岸はウェールスという田舎の町リントンという村から4キロほど離れたところにLee Abbey はたたずんでいました。ここで1年お世話になり次の1年はケンブリッジにある宣教師養成カレッジに通い、3年目はロンドンのセントポール寺院の前庭にある日系の旅行社にお世話になりました。

と振り返っている今は「充実した素晴らしい3年間!」と思えますが実はその頃のヨウコは悩める不幸な女性でした。キリスト教の信仰に立ち向かい「生きる意味」を考える毎日に押しつぶされそうな3年間でした。この3年間で流した涙とたち向かった苦悩は限りなかったと思います。

そして50年経った今思うことは、この3年間が今の私を育ててくれたということです。私は自分に向かい合いながら一生懸命でしたが、実は自分勝手でした。その時のワタシに寄り添ってくれた友人・知人・恩師の力は計り知れません。

それに気づかされたのはそんな昔のことではありません。「あなたは何故そこまでやるの?」と良く言われましたが、それは単に自分が受けた支え、援助、をお返ししているだけだと心の中で答えていました。それは私の事情です。誰一人として恩返しできていない誰一人としておかげ様で!とご挨拶できていません。

コロナウィルスの感染におびえ、とまどい、混乱する昨今、「命、生き方、価値」などが問われています。なぜいじめがなくならないのか。なぜDVがあるのか、なぜ差別があるのか、こうした社会問題はあのころ必死で生きていたワタシには見えませんでした。しかし50年経った今私は沢山の人に生かされてきたのだということ、そして恩返しは未来に繋げることだということが分ったような気がします。そしてまた分ったことは私は特別な人間ではなく、誰もがそうであるような普通の社会人であること。もし絆というものがあるとしたら、もし誰かと繋がることができるとしたらそんな自分に出会うことはないかと、誰もが自分もそんなひとりだと思うことではないかと。

イギリスでの3年間、そしてドイツの47年がとてもいとおしく思える今日に感謝!!

 

f:id:kuroingermany:20200508235428j:plain

とっておきの散歩道

 以前『哲学者のカフェ』と言う本を読んだことがある。ぼんやりとしか覚えていないのでレビューを検索したら次のように記されてい。

《現代ドイツの俊英・へレスが、古今東西のテク学者が集まる架空のカフェを設定、少女ノーラと文通する。ノーラが11歳から14歳になるまでの、大人と子どもの哲学書簡を通して、この世界の不思議な矛盾などをすべての答えを問い続けた人間の思考の歩みがわかる画期的なノンフィクション》

とあった。

大学のころ授業をサボって喫茶店で哲学書をかじっていたことがあり、最近はその中でもキルケゴールの「死に至る病」をチビチビかじって、とうとうかじりきれなかったことを思い出す。正解がわからない、出口の見えない今の世界のありように過去のワタシと少々議論してみたい気もしないでもない。

「そんな辛気臭いその頃のワタシに出会っていたら今はない!」と夫に言われたことがあった。あくまでも体育会系に生まれ変わったワタシで良いのだと。同意!

今日のお話しはお散歩コースがテーマ。

実は馬だ、畑だ、のお散歩コースとは別に私のお気に入りの一画がある。我が家に近い墓地がそれである。お墓の北口から「おじゃまします」と一礼して西口から「失礼します」と辞するのが習慣。ここは冒頭にのべた哲学者のカフェならぬ「天国のカフェ」と名づけている。墓石に刻まれた名前や色とりどりの花は今住んでいる住宅地の天国版。きっと夜な夜なお隣さんと語っているのだろう。

「どうして若くして天国へ?」 

「大きなお墓ですね。今はどなたと同居していますの?」

私たちが別れを告げた大切な人もこの一画に集まったりする。そして知りたかったことや分らなかったことなどを問いかけてみたりする。あるときは蝶々にあるときは小鳥になって現れたりもする。

私たちもここにする? ならばどこ? 墓石の色は?かたちは?  ひたすら明るい問いかけに終始するが結論はでない。

でも心が落ち着き、自分に向き合える場所として散歩道としては最高なのです。日本では考えられませんね。うるさい!と叱られてしまいそうですね。

 

歴史が語りかけること

 歴史研究者は現在に繋げる努力をしているでしょうか。

大河ドラマで取り上げられる人物像を追うと作り手の思惑が見え隠れはしますが、なかなか自分の今、自分の生き様にまで降りてきません。ともすると時代を牽引する人物に期待感をもって収まりがちです。では戦争を含む歴史は今の私たちに何を語りかけているのでしょうか。

 

ヒットラーの映画をコロナウィールスに結びつけたパロディー版が複数出回りあちこちに拡散されています。ドイツに住んでいる者にとっては無神経なまったく受け入れがたいことだということをお伝えしなければなりません。ヒットラー政権はドイツの歴史の大きな負の遺産であり、この歴史が繰り返されることがないように学校教育のカリキュラムに組み込まれ今でも子供たちは学んでいます。

私が教鞭をとったギムナジウムでも学年を追ってテーマ(キーワード)は異なりますが必ず取り上げられます。上級になると「あなたならそのような政権下ではどう行動をとりますか?」と、とかく現代でも社会問題になる人種差別、格差問題、宗教問題などに絡み合わせ自分独自の考えや意見を導き出そうとします。歴史に刻まれたヒットラー政権はドイツではいまだ過去のものととらわれておらず、国民一人ひとりに問いかけている大きなテーマなのです。それを軽はずみにパロディー化して人々に笑いをとどけようとする行為は決して容認できるものではありません。

ヒトラー政権も第2時世界大戦もドイツでは終わっていないのです。2度と繰り返してはならないと教育の場も政治や経済界も、そして一人ひとり「個人」も噛みしめているいえ、噛み締めるべき永遠の課題だからです。

第一次・第2次世界大戦、満州事変、朝鮮戦争などなど日本にも過去におさめきれない重い歴史があります。そして度重なる災害。どれひとつとっても本来は問われるのはわたしたち「個人」なのではないでしょうか。実際は当事者は「忘れられない」出来事として継承していくことを願いながら時とともに色あせていく現実に直面しています。何故でしょうか。それは当事者ではなく他人事になるからだと私は思います。

ではコロナウィルスに脅かされ緊急事態にある今の日本はどうでしょうか。医療関係者・感染者などが差別されるとニュースで伝えられるのを聞いて考えさせられました。ここで「なにもかも他人事」と「当事者」の境界線はどこにあるか聞いてみたく思います。私は「他人事」と思うことは極論を言えば「加害者」の行為に等しいと思うのですが、今日の加害者が明日の被害者になることをどうやって学べば良いのでしょう。3蜜を7割・8割避けることができないのはどうして?「わたし」が「あなた」が問われているように思います。